失敗とは何か?辞書で引いてみます。
物事をやりそこなうこと。方法や目的を誤って良い結果が得られないこと。しくじること。
様々な失敗が人生においてあるが、失敗はその中でも特に人生において用いられる言葉なのではないだろうか?人生の失敗、仕事の失敗(社会的)趣味においても、人間は失敗を重ね、それについて後悔し、それを悔やんで自己の内面に引きこもり、自分の思考に蓋をして生きてしまうものである。しかし、そんなに出来なかったこと、もしくは出来ないことが大事なことなのだろうか?何故、今生きる事に足枷をする失敗にそこまで重きを置くのだろうか?経験というものは人間を愚鈍にしてしまう。人生もしくは、生きる上での過程において、自己が成し遂げられないものに対して、喪失感を覚え、それ(もしくはそれに関する事)に対して消極的になってしまう。「もうこれには懲りた。」とか「飽きた。」とか「やる意味がない。」とかである。
人間は過ちを犯し、それについて反省し、二度とそれは行わないと思う側面がある。これは理性に内包された人間の一つの特徴といっていいだろう。しかし、(理性のある人間の)社会的に良い部分は自己(もしくは自己に教養された社会性)によって思考されたものであり、他者(もしくは社会)の目線からは全く違って見えたりするものでもある。自己における失敗と他者-における失敗はまるで違ったものになるのである。そうした中で他者における失敗という概念が、自己-における失敗の概念を上回った時、自己は失敗を感じてしまう。失敗というのは個人の中の相対的価値観でしかない。A(自己)の行った行動が、B(他者)にとっては失敗であり、C(他者)にとっては成功なのである。D(他者)に至っては、失敗か成功か判別がつけられない。この中でA(自己)が自分は成功したのか?とBCD(他者)に問うとそれぞれ成功、失敗、そのどちらでもないとなる。この中でB(他者)の数が多いことが失敗で、C(他者)の数が多いことが成功ということになる。D(他者)の数が多いと賛否両論ということになるのだろうか?もしくは、BとCの数が等しければ賛否両論ということになるのだろうか?
これについての哲学的、もしくは数学的諸見解は歴史や書物の中に多数あるのであろうが、私は無学で無知なので自身における考察を優先する。私においてこれについて、もしくは自身が知らないこと(もしくは無知について)考えることが自身における生きるという意味について重要であると考えるからである。
今思考した中で失敗もしくは成功という価値は他者に依存するということである。他者の失敗が多数ならば、自己において失敗とみなし、他者の成功において多数ならば成功と自己はみなす。これについて反論もしくは論駁する者があれば私はいくらでも仰せつかます。なぜならば私は無知で無学なのだから。この中で自己における失敗と成功について考える必要が出てくる。否、失敗とは何なのかという、もしくは成功とは何なのかという問いである。
失敗や成功は他者における価値に重きを置いているということはすでに述べたとおりである。近代においてはその価値は膨張し、その価値規範においてすべての物事は決定されている。それについて違和感を感じる者は排他され、疎外され社会における孤独を助長するものとなっているのである。自己というものは希薄になり、自身の成功や失敗は無視されてしまう。そうなると自己は自己における、決定権を失ってしまい、自我の崩壊が起こる。社会性や概念もしくは価値観に依存し、無目的もしくは病的に他者(もしくは物体)を標榜することになる。こうして自己における失敗と成功は他者(もしくは社会)に依存していく。
だが絶えず自我は自我における決定権を求めていて、それを表現する場所を欲する。それはサディズムでもマゾヒズムでもない、自己における自由な弁明を求めているのである。他者においては失敗かもしれないが、自己においては成功である。もしくは他者においては成功であるが、自己においては失敗である。こうした自己と他者(社会もしくは文化)における葛藤が常に、歴史上、もしくは現在においても生じてきたのである。そうした中で人間は葛藤し、自己と他者(社会もしくは文化)における調和を見出すところに行き着くのではなかろうか?それこそが人生、もしくは生きる意味、失敗の意味になりうるのではないだろうか?


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