無いという存在を仮定するとき、物体もしくは自己の大きさを人間は仮定するが、在るという存在を仮定するとき人間は何を仮定するか?

 人相の鑑定は初対面の際に限るといわねばなるまい。匂いは初めて嗅いだ時にだけ感じられ、葡萄酒の味は一杯目にのみ真に味わえるのと同様に、やはり、顔が、その完全な印象を与えるのは、ただ第一回目に限られる。とショーペンハウエルは言った。最初の出来事はそれほど大きい印象を与えるのである。我々が見た最初の物は何であろうか?おそらく母であろう。そうしてそれ以外の父を見て、それ以外の世界に触れていく。世界に触れてこそ初めて、人は外界を知覚しうるのである。その大きさたるや万物の根源、神に触れる感覚にも似たものかもしれない。それまでなかったものが突然理解できた時、人は大きな喜び(知識及び知恵を得る喜び。)を得るのであろう。今まであった状況や仮定それらが一切覆され、新しい状況に置かれたとき、それに対する感情の起伏はいかなるものであろうか?盲目の人や聴覚のない人がこれを克服するとき、感動して涙を流し、笑い転げるほどである。同じように生を得た赤子は生きているということ、認識できるということに最大限の喜びを感じるのである。これは原始的な生きるということを認知した最初の喜びであろう。しかしその喜びは自己に向かってほぼすべての方向から発せられる光のようなものであり、その眩しさに人はどういった反射も起こしえない。ただ茫然とその光を受容するのみである。その中で赤子はすべての方向から差し示される光に方向性を持つことが出来ない(方向性を持つ必要がない。)ために、ただ泣くことしかかなわないのである。だが他者、もしくは他の物を認識しうる段階においてその状況が変わってくる。自己という存在が完全なる物であるときそれは、生まれてきたときである。しかしこの状態では社会性もしくは文化性を持つことは難しい。この中で赤子は初めて障害にぶつかる。規範もしくは秩序といったものが母性から与えられるのである。この中で赤子は自己という存在が、母性からの意思によって成り立っていることを知るのではないだろうか?その二つの関係の中に自己の存在を認識することを一次的な成長とみなす。こうして母子は一体となり、お互いの存在について理解を深めていく。さらに成長すると父というものが現れてくる。

この喜びこそが人類を発展させてきた根源的な知恵の所以であると考える。

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