失敗とは何か――他人の評価と、自分の基準を分けて考える

崩れた石段で立ち上がろうとする人物と、その先に差し込む朝日を描いたイラスト 人生・幸福

うまくいかなかった出来事と、「自分の人生は失敗だ」という評価は同じなのだろうか。失敗の意味を、他人の目と自分の基準から考えてみたい。

何を失敗と呼んでいるのか

失敗とは何か。ここでは、目指した結果に届かなかったことと、その出来事につける評価を分けて考える。

たとえば、決めた締め切りに間に合わなかったことは確かめられる。一方で、それだけで「自分は何をやっても駄目だ」と評価するのは、別の話だ。

様々な失敗が人生においてあるが、失敗はその中でも特に人生において用いられる言葉なのではないだろうか?人生の失敗、仕事の失敗(社会的)趣味においても、人間は失敗を重ね、それについて後悔し、それを悔やんで自己の内面に引きこもり、自分の思考に蓋をして生きてしまうものである。

しかし、そんなに出来なかったこと、もしくは出来ないことが大事なことなのだろうか?何故、今生きる事に足枷をする失敗にそこまで重きを置くのだろうか?つらい経験が、新しい試みをためらう理由になることもある。人生もしくは、生きる上での過程において、自己が成し遂げられないものに対して、喪失感を覚え、それ(もしくはそれに関する事)に対して消極的になってしまう。

「もうこれには懲りた。」とか「飽きた。」とか「やる意味がない。」とかである。

同じ結果でも評価が分かれる

人間は過ちを犯し、それについて反省し、二度とそれは行わないと思う側面がある。これは理性に内包された人間の一つの特徴といっていいだろう。しかし、(理性のある人間の)社会的に良い部分は自己(もしくは自己に教養された社会性)によって思考されたものであり、他者(もしくは社会)の目線からは全く違って見えたりするものでもある。

自己における失敗と他者-における失敗はまるで違ったものになるのである。そうした中で他者における失敗という概念が、自己-における失敗の概念を上回った時、自己は失敗を感じてしまう。失敗の評価には、個人の価値観が関わる面もある。A(自己)の行った行動が、B(他者)にとっては失敗であり、C(他者)にとっては成功なのである。

D(他者)に至っては、失敗か成功か判別がつけられない。この中でA(自己)が自分は成功したのか?とBCD(他者)に問うとそれぞれ成功、失敗、そのどちらでもないとなる。この中でB(他者)の数が多いことが失敗で、C(他者)の数が多いことが成功ということになる。D(他者)の数が多いと賛否両論ということになるのだろうか?

もしくは、BとCの数が等しければ賛否両論ということになるのだろうか?

ここから先は、僕自身の考察である。失敗を考えるとき、自分が何を目指したかと、他人に何を期待されたかを分ける必要があると思う。

自分では前進したと思ったことでも、他人には不足して見える場合がある。逆に、周囲に褒められても、自分の望んだ結果とは違うこともある。評価の多数決だけで、自分の目標まで決めてしまってよいのだろうか。

他人の評価だけに任せない

ただし、自分の基準だけで考えればよいという話でもない。仕事で約束したことや、他人に与えた影響は確かめる必要がある。その上で、出来事への反省と、自分全体への否定を分けたい。

だが絶えず自我は自我における決定権を求めていて、それを表現する場所を欲する。それはサディズムでもマゾヒズムでもない、自己における自由な弁明を求めているのである。他者においては失敗かもしれないが、自己においては成功である。もしくは他者においては成功であるが、自己においては失敗である。

こうした自己と他者(社会もしくは文化)における葛藤が常に、歴史上、もしくは現在においても生じてきたのである。そうした中で人間は葛藤し、自己と他者(社会もしくは文化)における調和を見出すところに行き着くのではなかろうか?それこそが人生、もしくは生きる意味、失敗の意味になりうるのではないだろうか?

この問いから、今考えていること

何が起きたか、誰にどんな影響があったか、次は何を変えるか。その三つを考えた上で、ひとつの失敗を人生全体の判定にしないようにしたい。

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