シフト表を一枚作っても、仕事の知識は残らない――AIと考えた「経験の蓄積」

開いたノートに置かれた万年筆 人生・幸福

画面に表示されたシフト表は、よく出来ているように見えた。休日や勤務が一枚の表に収まり、色分けされた記号を追えば、全体の配置も見渡せる。僕はそれを見て、「なかなかいいシフト表が出来た」と感じた。

けれど、同じ頃にもう一つの感想も抱いていた。AIがいなければ、僕はこれと同じものを作れないのではないか。

この二つは矛盾していない。満足できるものが出来たことと、その作り方が自分の中に残ったことは別だからだ。一枚の表を手に入れた僕は、同時に、その表が出来上がるまでの判断をどこまで自分のものにできたのか、と考えることになった。

完成したのは、まだ「試作」だった

作っていたのは、来年度のシフト表の試作である。休暇の予定がすべて決まった後の完成版ではなく、まず表として成立させられるかを確かめる段階だった。分かっている条件をAIに伝え、いったん形にしてもらい、出てきた表を見ながら不足を探した。

作業を始めた時点で、僕の頭の中に条件が完全な一覧として並んでいたわけではない。話を進めるうちに、実際の配置に必要な人数について新しい情報が入り、それを伝えて作り直した。特定の曜日に休みを置く条件も加えた。表は一度で完成したのではなく、現場について僕が知っていることを、やり取りの中で少しずつ外へ出すことで形になった。

ここでAIがしたのは、与えられた条件を整理し、表に変換することだった。どの条件が現場で必要なのかを知っていたのは僕である。ただし、僕はその知識を最初から整然と説明できたわけではない。表が返ってきたからこそ、「これが足りない」「ここは違う」と気づけた。

つまり、僕の経験は完成した知識として頭に入っていたのではなく、目の前の表との食い違いとして現れたのである。

AIに任せても、判断までは消えない

出来上がった表を確認していると、祝日の扱いに誤りがあることに気づいた。日付が一つ違えば、その日の扱いだけでなく、周囲の配置にも影響する。整った表は正しそうに見える。しかし、見た目の整然さは、内容の正しさを保証しない。

このとき僕がしたのは、複雑な計算ではない。カレンダーと照らし合わせ、違和感を見つけ、修正を求めただけだ。それでも、この「だけ」がなければ、誤りは表の中に残っていた。AIに作業を任せることで、入力や配置の手間は減らせる。だが、何を正しいとするかの判断まで、自動的に引き受けてもらえるわけではない。

PDFと画像に出力したときには、別の問題も見えた。内容が同じでも、色がないと確認しにくい。僕は色付きの方が分かりやすいと伝え、見た目を直してもらった。シフト表は保存するための表であると同時に、人が見て間違いを探し、判断するための道具でもある。

この経験から分かったのは、AIを使えば自分の仕事が消えるという単純な話ではなかった。手を動かす作業が減るほど、条件を言葉にすることと、結果を点検することの重さが目立つようになる。

完成品だけでは、仕事の知識は残らない

シフト表のことを話していたとき、僕は、ルールや規則、資産、記憶といったものを積み上げることに、職場や人生の豊かさの一部が決まるのではないかと考えた。今回の経験は、その考えを具体的に見せてくれた。

完成した表は残る。だが、表だけを見ても、なぜその配置にしたのか、最初にどんな条件を与えたのか、どこで間違いに気づいたのかまでは分からない。翌月に条件が変われば、前の表をそのままコピーすることもできない。結果だけが保存され、判断の道筋が失われれば、次の人はまた同じ場所から考え始めることになる。

仕事が特定の人に依存するのは、その人だけが手を動かせるからとは限らない。その人の頭の中に、例外の扱い、確認する順番、過去に失敗した箇所が蓄積されているからでもある。ところが、その知識は完成した書類には表れにくい。

だから残すべきものは、正解の表だけではない。「祝日を確認する」「後から変わりやすい条件を分ける」「人数だけでなく偏りを見る」「最後に色分けした状態で全体を見直す」といった確認の順序も、次に使える形にしておく必要がある。

それは立派な手順書でなくてもよい。次に同じ作業を始めた自分が、前回どこで立ち止まったのかを思い出せる程度の記録でも、何も残っていない状態とは違う。

蓄積は、古い正解を守ることではない

もっとも、記録やルールを増やせば、それだけ職場が豊かになるわけでもない。今回の表も、実際の運用で問題なく使えたことを確認した完成品ではない。条件が変われば、試作で決めたことも変えなければならない。

過去のやり方が文書になっていると、それだけで正しいように感じることがある。しかし、理由を失ったルールは、ときに仕事を減らすどころか増やしてしまう。何のために決めたのかが分からなければ、状況が変わっても修正できないからだ。

積み上げるとは、昔の答えを固定することではないのだろう。条件と判断の理由を残し、次に使うときに、まだ妥当かを問い直せるようにすることだ。記録が生きているかどうかは、保存した量ではなく、後から修正できるかで決まるのかもしれない。

僕に残ったのは、表よりも問いだった

僕は以前、成長したいのに、何を目指したいのか分からないと書いた。シフト表が一枚出来たからといって、表計算の技術が身についたわけでも、急に仕事のできる人になったわけでもない。自分一人で同じものを再現できるかという不安も残っている。

それでも、以前とは違う問いを持てるようになった。AIに何を伝えればよいのか。返ってきた結果のどこを疑うべきか。完成したファイルのほかに、次回の自分へ何を渡しておけばよいのか。

次にシフト表を作るとき、本当に作業が楽になるかは、そのとき初めて分かる。今回の経験を残したつもりでも、役に立たないかもしれない。その場合は、記録の仕方そのものを直せばよい。少なくとも、毎回ゼロから頑張ることを、努力や根性の問題として受け入れずに済む。

そして、仕組みによって生まれた時間を、さらに多くの仕事で埋めるのか、自分で使い方を選べる時間として残すのか。そこにも、別の問題がある。効率化は、それだけでは豊かさの答えにならない。

今回、僕の手元に残った一番大きなものは、完成したシフト表ではない。仕事の経験を残すとは、結果を保存することなのか、それとも判断を次へ渡すことなのか、という問いだった。

答えはまだ出ていない。次に同じ仕事をするとき、今回より少しでも迷わずに進めるかどうか。まずはそこで確かめてみたい。

写真:Aaron Burden / Unsplash。

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